俵万智が選んだシングルマザーの道と移住人生|徹子の部屋で語った波乱の半生
2026年1月20日、歌人の俵万智さんが「徹子の部屋」に出演し、シングルマザーとしての決断、東日本大震災後の石垣島移住、そして息子の成長について語りました。
「サラダ記念日」から39年、63歳となった今も歌人として輝き続ける俵万智さんの人生は、多くの50代以上の女性の心に深く響くものがあります。
※管理人は1/20のオンエアーを見る前に記事作成していますことをご了承ください。
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はじめに:「サラダ記念日」から39年の歳月
「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」
1987年、この一首で日本中を席巻した俵万智さん。当時25歳だった彼女が紡いだ言葉は、280万部を超える大ベストセラーとなり、短歌の世界に革命を起こしました。
あれから39年。現在63歳となった俵万智さんは、シングルマザーとして40歳で出産し、東日本大震災を機に石垣島へ移住、その後宮崎へ、そして2022年には再び仙台へと、人生の大きな波を乗り越えてきました。
2026年1月20日放送の「徹子の部屋」では、その波乱万丈な半生と、今も歌人として輝き続ける秘訣が語られました。特に50代以上の女性にとって、俵万智さんの生き方には学ぶべきことが多く詰まっています。
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俵万智さんのプロフィール

基本情報
名前:俵万智(たわら まち)
生年月日:1962年12月31日(現在63歳)
出身地:大阪府四條畷市
学歴:福井県立藤島高等学校→早稲田大学第一文学部日本文学専修
職業:歌人、エッセイスト
所属:結社「心の花」、東京コンサーツ(事務所)
家族構成
父:俵好夫(希土類磁石研究者、物理学者・2024年に91歳で逝去)
母:仙台出身
息子:匠見(たくみ)さん(2003年11月生まれ、現在22歳・大学生)
「俵万智」という名前は本名です。芸名だと思われることも多いのですが、物理学者だった父・俵好夫さんから受け継いだ本名なのです。
華々しい経歴の始まり
俵万智さんは早稲田大学在学中に、短歌結社「心の花」を主宰する佐佐木幸綱氏に師事し、短歌の世界に入りました。大学時代はアナウンス研究会にも所属していたという意外な一面も。
1985年に大学を卒業後、神奈川県立橋本高等学校の国語教員として勤務しながら短歌を発表。1986年に『八月の朝』で角川短歌賞を受賞し、翌1987年に発表した歌集『サラダ記念日』で一躍時の人となりました。
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「サラダ記念日」が起こした短歌革命
280万部のベストセラーが生まれた背景
1987年5月、俵万智さんが25歳の時に発表した第一歌集『サラダ記念日』は、従来の短歌の概念を覆す作品でした。
それまでの短歌は、格調高く、難解な言葉を使うことが良しとされていました。しかし俵万智さんは、日常のささやかな出来事や、等身大の恋愛感情を、誰もが理解できるカジュアルな言葉で表現したのです。
「サラダ記念日」「チョコレート」「コーラ」といった、それまでの短歌では考えられなかった言葉選びが、若い世代の心を掴みました。歌集としては異例のベストセラーとなり、俵万智さんは一世を風靡したのです。
現代歌人協会賞受賞と国語教員の退職
1988年、『サラダ記念日』で第32回現代歌人協会賞を受賞。その翌年1989年3月、俵万智さんは神奈川県立橋本高校を退職し、歌人としての道を本格的に歩み始めます。
当時の決断は、安定した教員の職を手放すという大きなものでしたが、俵万智さんは自分の信じる道を選びました。この決断力こそが、後のシングルマザーとしての選択にもつながっていくのです。
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40歳、シングルマザーとしての決断
「母になります」という報告
2003年11月、俵万智さんは40歳で男児を出産しました。未婚のまま、シングルマザーとしての道を選んだのです。
親しい友人宛ての知らせには「母になります」という短いメッセージが添えられていました。ある友人は後にこう振り返っています。
「一緒に芝居を見た後、食事に近くの店へ入ったら、お酒好きの俵さんに『今日は飲まない』と言われて驚いた。その後、バイト先でゆったりした服を着ていたから『妊娠しているの?』と聞いたら『暑いから』と笑ってごまかされた。それから少しして『母になります』というメッセージと共に『事前に出産を当てたのは、小山さんだけです』というショートメールが届いた」
40歳、ラストチャンスでの出産
俵万智さんは後にこう語っています。
「チャンスがあれば子どもは産んでみたいという思いがありました。母からも『子育ては面白いわよ』と言われていました。40歳のラストチャンス。迷いはありませんでした」
相手には負担をかけたくないため、父親の名前すら公表せず、シングルマザーになる道を選びました。この決断の背景には、俵万智さん独特の恋愛観がありました。
「トリアングル」に描かれた心境
息子の父親について、俵万智さんは公にはしていませんが、2006年9月に出版された自伝的小説「トリアングル」には、そのあたりの心境が描かれていると言われています。
小説の中では、主人公がこれまでの人生で出会った男性3人との関係を中心に描かれており、出版当時は大きな話題となりました。読者からは「具体的でリアリティのある妻子ある男性との恋愛生活。これはまさに作者の現状なのでは?」という声も上がりました。
小説内に登場する3人の男性のうち1人が息子の父親ではないかという説もありましたが、俵万智さん本人はそれについて何もコメントしていません。あくまで小説であり、どこまでがフィクションでどこまでが事実かは不明です。
しかし、この小説には俵万智さんの心情が投影されていることは確かでしょう。
歌集「プーさんの鼻」で歌う母の歓び
2005年に出版した第四歌集『プーさんの鼻』では、母となった歓びを高らかに歌っています。
「バンザイの姿勢で眠りいる吾子よ そうだバンザイ生まれてバンザイ」
妊娠、出産、子育ての不安など微塵も感じられない、渾身の一首です。この歌集には、わが子の行動をまねて本をかじってみせる微笑ましい俵万智さんの姿も詠まれています。
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シングルマザーとしての子育ての日々
仙台への移住と両親のサポート
2006年、息子の幼稚園入園を控えた俵万智さんは、大きな決断をします。東京を離れ、宮城県仙台市へ移住したのです。
「見に行った都内の幼稚園にはどこにも土の庭がない。息子を土の園庭で思いっきり遊ばせたいと思いました。自分が東京にいる理由はお芝居を見ることと、お酒を飲みに行くことしかない。だけどこの2つ、子育てしていたら、そもそもできない」
仙台は俵万智さんの母の出身地で、父も東北大学大学院で学んだ縁のある土地でした。両親が終の住み処と決めた仙台で、俵万智さんは両親の助けを借りながら、シングルマザーとしての子育てを始めたのです。
育児の現実と「助けてー」の勇気
しかし、睡眠もまともに取れない育児には悪戦苦闘しました。現実の子育ては思いどおりにいかないことも多く、俵万智さんは正直にこう語っています。
「本当に大変で、仙台に住む母や名古屋に住む叔母に交代で来てもらったこともありました。使えるものはなんでも使う。『助けてー』の勇気は子どもが教えてくれました」
この言葉は、多くのシングルマザー、いえ、すべての母親たちの心に響くものがあります。完璧な母親である必要はない。助けを求める勇気を持つことも、子育ての大切な一部なのです。
仙台での穏やかな日々
仙台での暮らしは、俵万智さんの歌にも新しい風を吹き込みました。
「だだ茶豆、笹かまなども並びおり仙台の子のおままごとには」
母親の眼差しに仙台の風土を織り交ぜた作品を詠むようになり、息子の成長を見守る穏やかな日々が続いていました。
2011年3月11日、人生を変えた東日本大震災
あの日、俵万智さんは東京にいた
2011年3月11日午後2時46分、東北地方太平洋沖地震が発生しました。
俵万智さんはその時、東京の新聞社で会議に出ていました。「仙台で震度7の号外が出ます!」という情報に接し、身体が震えたといいます。
幸い、仙台の家族は無事でしたが、交通機関はすべてストップ。5日後に飛行機とバスを乗り継ぎ、やっとの思いで仙台にたどり着きました。
小学1年生の息子に現れた異変
家族との再会はできたものの、余震は続き、東京電力福島第一原発事故のニュースが日本中を震撼させました。
当時小学1年生だった息子さんに、異変が現れ始めます。震災のショックからか、指しゃぶりをするようになり、精神的に不安定になっていったのです。
テレビをつければ津波の映像ばかり。余震のおそれ。放射能汚染の不安。俵万智さんは母として、一つの決断を下します。
「子を連れて西へ西へと逃げてゆく」
着の身着のままで仙台を離れる決心をした俵万智さん。山形空港から、たまたま空いていた那覇便に飛び乗り、息子を連れて沖縄へ向かいました。
そのときの心境を、俵万智さんはこう詠んでいます。
「子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え」
情報が錯綜する中、最悪の情報を信じて行動に移す。母として、息子の命を守るために選んだ道でした。
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石垣島移住:バッシングを乗り越えて
「自主避難」への批判の声
しかし、俵万智さんの行動は、一部から厳しい批判を受けることになります。
「東北で子育てしている人間をなんだと思っているのか」
「自分だけよければそれでいいのか」
ツイッターには批判の声が殺到しました。俵万智さんの心も揺れたといいます。
ニュースでは「直ちには影響がない」という言葉が繰り返されていました。しかし俵万智さんは、こう思ったのです。
「信じることなどとうていできない。10年後に影響があったらどうしてくれる」
母として、息子の未来を守るために下した決断でした。
偶然が必然に変わった石垣島との出会い
那覇のホテルに2週間ほど滞在しましたが、仙台や周辺の状況は変わらず、息子の指しゃぶりも続いていました。
そんな時、俵万智さんは石垣島に移住した知り合いのことを思い出し、連絡してみたのです。すると「そんなことならおいで」とすぐに言ってくれました。
友達の家に居候させてもらい、2、3日気晴らしできればと思っていました。しかし、息子さんに劇的な変化が起こります。
息子の劇的な回復
海に行ってモズクを採ったり、近所の子どもたちと砂浜で遊んだり。石垣島の大自然の中で、息子さんは見る見るうちに元気を取り戻していきました。むしろ、震災前よりも元気なくらいだったといいます。
俵万智さんは語っています。
「きっかけは2011年の震災でした。たまたま空いていた那覇便に飛び乗り、知り合いが石垣に移住したことを思い出して連絡した。初めて石垣に来て、2、3日気晴らしできればと思っていたけれど、息子が劇的に元気になっていって。それ以来、好きで住んでます。きっかけはたまたまだったけれど、もうすぐ3年になるので、偶然ではないなと思っています」
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石垣島での「天国」のような日々
生徒数13人の小学校
石垣島で息子さんが通った小学校は、生徒数わずか13人。大自然に囲まれた中で、たくましく育っていきました。
近所の家同士がまるで家族のよう。息子さんは集落のすべての家に泊まりに行って、雑魚寝。息子にとって「おとう」のような大人の男性もたくさんいたといいます。
俵万智さんはこう語っています。
「シングルマザーの私にとって子育てしていて足りなかったものが全部、石垣島のこの集落にはありました」
「オレが今マリオなんだよ」
2013年に発表された第五歌集『オレがマリオ』には、石垣島での生活が詠まれています。
「『オレが今マリオなんだよ』島に来て子はゲーム機に触れなくなりぬ」
さとうきび畑で鬼ごっこ、川でエビを捕まえ、滝壺に飛び込むわが子の姿は、まさにマリオそのもの。
「偶然訪れた石垣島は私たち親子にとって、まさに天国。浦島太郎のように帰りそびれた。それまでインドア派だった私も、息子に連れられカヤックに乗ったり洞窟探検やシュノーケリングをするなど貴重な体験もしました。そんなことを私にさせるなんて子どものエネルギーって恐ろしい」
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宮崎への移住:息子の進学と新たな決断
全寮制中高一貫校への進学
息子さんが中学進学を控えた2016年4月、俵万智さんは再び移住を決断します。今度の移住先は宮崎県でした。
息子さんは宮崎県内にある全寮制の男女共学の中高一貫校「宮崎県立五ヶ瀬中等教育学校」へ進学することになったのです。
この学校を選んだ理由について、息子さんは「絶対、この学校に入りたい!」と強く希望したそうです。親元を離れて寮生活するのは心細いはずですが、それを上回る魅力がこの学校にはあったのでしょう。
毎日ハガキを出し続けた6年間
進学をしてからしばらくは、息子さんも俵万智さんもホームシックになりました。
しかし俵万智さんは、毎日毎日ハガキを息子さんに出し続けたのです。なんと、6年間毎日!
この母の愛情が、息子さんを支え続けました。
若山牧水への憧れと宮崎との縁
俵万智さんが宮崎に移住したのには、もう一つ理由がありました。
宮崎県日向市で開催される「牧水・短歌甲子園」の審査員を毎年務めており、また息子さんが宮崎県木城町で自然体験に参加していたことから、年数回は宮崎に滞在していたのです。
そして俵万智さん自身、若山牧水への憧れがありました。宮崎の食べ物の美味しさ、人柄の良さにも好印象を持っていました。
2020年3月には、宮崎県の全国障害者芸術・文化祭の広報アンバサダー(大使)にも就任しています。
宮崎での充実した創作生活
宮崎市で6年半暮らした俵万智さんは、この地で充実した創作生活を送りました。
2020年には7年ぶりとなる第六歌集『未来のサイズ』を出版し、迢空賞に輝きます。コロナ禍の不安や新たな日常を詠んだ歌をメインに、石垣島や宮崎での丁寧な暮らしを詠んだ歌を組み合わせた作品です。
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2022年、仙台への帰還:親の介護という新たなステージ
高齢の両親をサポートするために
2022年9月、俵万智さんは宮崎市から再び宮城県仙台市へ移住しました。理由は、高齢の両親の生活をサポートするためです。
息子さんは大学進学で東京へ。子育てが一段落し、今度は親の介護という新たなステージに入ったのです。
俵万智さんは宮崎を離れる際、こう話しています。
「拠点を移しても宮崎へ恩返しを続けたい」
「牧水・短歌甲子園」の審査員など、宮崎での活動は今後も継続する予定だといいます。
2024年、最愛の父との別れ
物理学者で希土類磁石の研究者だった父・俵好夫さんは、常に娘の活躍を応援していました。しかし2024年、91歳で亡くなりました。
「徹子の部屋」でも語られたように、子どもの頃から父が大好きだった俵万智さんは、その追悼のために「白き父」という連作の短歌を発表し、父を弔いました。
親との別れは、誰にでも訪れるもの。しかしその悲しみを短歌という形で昇華させる俵万智さんの姿は、多くの人の心に寄り添うものがあります。
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息子・匠見さんの成長
Twitterで話題になった才能ある息子
俵万智さんは自身のTwitterで、自分自身のつぶやきだけでなく、息子さんのつぶやきも投稿しています。
息子さんとのやりとりが、ファンの間で大きな話題になっているのです。息子さんが使う感性と独特な言語化表現が、多くの人の心を掴んでいます。
例えば、俵万智さんが毎日、息子さんのお昼ごはんを作っているのを見て、褒め言葉がマンネリ化しないように、「カフェ飯か!俺にはもったいないクオリティだな!」とコメント。
このセンスは、まさに母親譲りと言えるでしょう。
母と同じ国語学を専攻する大学生に
「徹子の部屋」で明かされたところによると、息子さんは現在、大学で母と同じ国語学を専攻しているそうです。
幼い頃から母の背中を見て育った息子さんが、母と同じ道を選んだことに、俵万智さんはどんな思いを抱いているのでしょうか。
震災でのトラウマから指しゃぶりをしていた小学1年生の男の子が、今では立派な大学生に成長しました。石垣島の大自然、宮崎の全寮制学校での6年間が、息子さんを大きく成長させたのです。
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徹子の部屋で語られた今の思い
「サラダ記念日」から39年、63歳の今
2026年1月20日放送の「徹子の部屋」に出演した俵万智さん。63歳となった今も、歌人として精力的に活動を続けています。
一世を風靡した「サラダ記念日」から39年。その間、俵万智さんは恋愛、結婚しない選択、40歳での出産、シングルマザーとしての子育て、震災、移住、父との別れ、そして親の介護と、人生のあらゆる波を経験してきました。
変わらぬ姿勢:「いい面を見たい」
「徹子の部屋」では、俵万智さんの一貫した姿勢が語られました。
「いい面を見たい」
『サラダ記念日』でデビュー以降、俵万智さんは一貫してこの姿勢を貫いてきました。様々な経験を通して変化する感情や日常を歌にすることで、多くの人々の共感を呼んでいるのです。
2023年、紫綬褒章を受章
短歌の世界に影響を与え、社会に影響を与えたことが評価され、俵万智さんは2023年に紫綬褒章を受章しました。
「サラダ記念日」で起こした短歌革命は、日本の文化に大きな足跡を残したのです。
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俵万智さんの恋愛観と結婚観
「不倫」をテーマにした『チョコレート革命』
1997年に発売された俵万智さんの第三歌集「チョコレート革命」は、「不倫」をテーマに詠い、2回目のブームを巻き起こしました。
それまでの俵万智さんといえば、初々しくさわやかな恋愛や、ささやかな日々の出来事を描く「サラダ記念日」の印象が強かっただけに、世間に衝撃を与えたのです。
「チョコレート革命」の中で詠われる生々しい描写は、それまでの俵万智さんのイメージをひっくり返す内容ばかり。この優れた表現で歌集が話題となると同時に、歌人・俵万智は、本当に「不倫」しているのか?と噂になりました。
独特の恋愛観
俵万智さんは、自身の恋愛観についてこう語っています。
「私はいいところを見つけるのが得意だから惚れっぽい。相手のいいところを見つけて好きになれば、相手もいいところをこっちに見せてくれる。別れちゃった人とも、もっと長く付き合っていたらどうなっていたか。あったかもしれない人生があるって悪くないよね」
この言葉には、俵万智さんの人生哲学が詰まっています。過去を後悔せず、あったかもしれない人生も含めて、すべてを肯定する。この前向きな姿勢が、俵万智さんの歌にも反映されているのです。
結婚しない選択
俵万智さんは結婚していません。離婚歴もありません。
シングルマザーとして40歳で出産しましたが、相手には負担をかけたくないという思いから、父親の名前すら公表せず、一人で子育てをする道を選びました。
この選択は、当時も今も賛否両論があるでしょう。しかし俵万智さんは、自分の信じる道を堂々と歩んできました。そしてその選択を後悔していないことが、「徹子の部屋」での穏やかな表情からも伝わってきます。
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50代以上の女性へのメッセージ
「助けてー」の勇気を持つこと
俵万智さんの人生から、私たち50代以上の女性が学べることは何でしょうか。
まず一つは、「完璧である必要はない」ということです。
俵万智さんは、育児で大変だった時、正直に「助けてー」と声を上げました。母や叔母に助けを求め、使えるものはなんでも使いました。
50代以上になると、「もう私はベテランだから」「人に迷惑をかけられない」と、一人で抱え込んでしまうことがあります。しかし俵万智さんは言います。
「『助けてー』の勇気は子どもが教えてくれました」
助けを求める勇気を持つこと。それは弱さではなく、賢さなのです。
人生は何度でもやり直せる
俵万智さんの人生を振り返ると、何度も大きな決断をしていることに気づきます。
安定した教員職を辞めて歌人の道へ。40歳で未婚のまま出産。震災を機に石垣島へ移住。息子の進学に合わせて宮崎へ。そして親の介護のために仙台へ。
人生は一本道ではありません。何度でも方向転換できる。何歳からでもやり直せる。俵万智さんの人生は、そのことを私たちに教えてくれます。
50代、60代は「もう遅い」と諦める年齢ではありません。俵万智さんのように、新しい土地で新しい生活を始めることも、新しい挑戦をすることもできるのです。
「いい面を見る」前向きな姿勢
俵万智さんが一貫して大切にしているのは、「いい面を見たい」という姿勢です。
震災で石垣島に移住した時も、批判の声がありました。しかし俵万智さんは、石垣島での生活の素晴らしさを歌に詠み続けました。
人生には苦しいこと、辛いこともたくさんあります。しかし、その中でも「いい面」を見つけることができれば、人生はもっと豊かになります。
50代以上になると、人生の様々な困難に直面します。体力の衰え、親の介護、自分自身の老い。しかし俵万智さんのように、その中でも「いい面」を見つける姿勢を持つことができれば、穏やかな気持ちで日々を過ごすことができるのではないでしょうか。
過去を肯定し、未来を信じる
俵万智さんは、別れた恋人たちとの思い出についても、こう語っています。
「あったかもしれない人生があるって悪くないよね」
過去を後悔しない。すべての出来事は、今の自分を作るための必要な経験だった。そう思えることができれば、人生はもっと軽やかになります。
50代以上の女性にとって、過去を振り返ると、様々な選択があったでしょう。あの時こうしていれば、あの人と結婚していれば、あの仕事を選んでいれば。
しかし、すべての選択が今の自分を作っています。俵万智さんのように、「あったかもしれない人生」も含めて、すべてを肯定することができれば、心は軽くなるのです。
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現在の俵万智さんの活動
仙台を拠点に全国で活躍
現在、俵万智さんは仙台を拠点に、全国各地で講演会や歌会を開催しています。
毎年、宮崎県の「牧水・短歌甲子園」の審査員も務めており、若い世代への短歌の普及にも力を入れています。
SNSでの情報発信
俵万智さんは、Twitterで積極的に情報を発信しています。
日常の風景を切り取った短歌、息子さんとのやりとり、全国各地での講演会の様子など、親しみやすい投稿が人気を集めています。
新作歌集への期待
2020年に発表された第六歌集『未来のサイズ』から、すでに6年近くが経過しています。
親の介護、父との別れ、息子の成人。この間の俵万智さんの人生にも、様々な出来事がありました。次の歌集では、どんな歌が詠まれるのか、多くのファンが期待しています。
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まとめ:俵万智さんから学ぶ、自分らしく生きる勇気
俵万智さんの人生は、決して平坦ではありませんでした。
批判を受けたこともあります。悩んだこともあるでしょう。それでも俵万智さんは、常に自分の信じる道を選び、堂々と歩いてきました。
40歳での出産。シングルマザーとしての決断。震災後の移住。そのすべてが、息子さんのため、自分のための選択でした。
「徹子の部屋」で語られた俵万智さんの穏やかな表情は、自分の人生を肯定し、すべての経験を受け入れた人だけが見せられる表情です。
50代以上の女性にとって、俵万智さんの生き方は大きな励みになるはずです。
人生は何度でもやり直せる。
完璧である必要はない。
「助けてー」と言う勇気を持つ。
いい面を見る前向きな姿勢。
過去を肯定し、未来を信じる。
俵万智さんの人生から学べることは、たくさんあります。
63歳となった今も、歌人として輝き続ける俵万智さん。その姿は、私たち50代以上の女性に「まだまだこれから」という希望を与えてくれます。
あなたも、俵万智さんのように、自分らしい人生を歩んでみませんか?
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俵万智さんの代表作品一覧
歌集
- 『サラダ記念日』(1987年)
- 『かぜのてのひら』(1991年)
- 『チョコレート革命』(1997年)
- 『プーさんの鼻』(2005年)
- 『オレがマリオ』(2013年)
- 『未来のサイズ』(2020年)
小説
- 『トリアングル』(2006年)
受賞歴
- 角川短歌賞(1986年)
- 現代歌人協会賞(1988年)
- 迢空賞(2020年)
- 紫綬褒章(2023年)
最後に
俵万智さんの人生は、「サラダ記念日」だけではありません。あれから39年、様々な経験を経て、今も歌人として、母として、一人の女性として輝き続けています。
「徹子の部屋」で語られた俵万智さんの言葉の一つひとつには、長い人生経験から得た知恵と優しさが詰まっていました。
50代以上の女性にとって、俵万智さんの生き方は大きな道しるべとなるはずです。自分らしく、前向きに、そして何よりも「いい面を見る」ことを忘れずに。
人生はまだまだこれから。俵万智さんのように、自分の信じる道を歩んでいきましょう。
「バンザイの姿勢で眠りいる吾子よ そうだバンザイ生まれてバンザイ」
人生のすべてに、バンザイと言える日が来ることを願って。

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